埼玉県越谷市の漢方新生堂薬局です。不妊症・更年期障害・めまい・耳鳴り・腰痛・神経痛・アトピーなどでお悩みの方はご相談ください。
大河ドラマは“フィクション”
とは言え、今年の時代考証は小和田哲夫氏(静岡大名誉教授)が担当ということもあって観ています。
先日の『おんな城主 直虎』では、井伊万千代(のちの井伊直政)が家康に生薬を献上するシーンがありました。
葛根(カッコン)、当帰(トウキ)、芍薬(シャクヤク)、大棗(タイソウ)、茯苓(ブクリョウ)・・・一つずつ手に取りながら丁寧に読み上げていました。どれも漢方ではよく使われる生薬ばかりです。
葛根、当帰、半夏、芍薬、姫萩・・・
ヒメハギ科の遠志(オンジ)
なかでも、万千代が疲労回復にと家康に勧めたのがヒメハギ。これは、ヒメハギ科の遠志(オンジ)のことです。漢方薬では帰脾湯(きひとう)や人参養栄湯(にんじんようえいとう)などに含有され、精神安定や不眠などの効があるとされています。
この遠志、近年では“物忘れ”に良いとされていますが、果たしてどうでしょう。「信じる者は救われる」で、効果が期待できるかもしれません(笑)
さて、万千代が南渓和尚(なんけいおしょう)から送り届けられた生薬類の中には、秘伝の書がしたためてあります。そこには、利膈湯、養心湯、安神湯を確認することができます。
調べてみると、利膈湯は江戸時代の名医である名古屋玄医が考案した処方のようです。あれっ???この時はまだ戦国時代のはずですが(笑)
細かいことは抜きにして、生薬オタクと言われる家康の起源ともいえる一場面でした。因みに、家康がよく参考にしていたとされる書は、宋の時代の『和剤局方』(わざいきょくほう)と言われています。家康が生きた時代からさかのぼること500年前の書です。
そして、同じ書を現代の我々が読んでいる。。。なんとも感慨深いですね。
もっとも、家康は自分で作った薬湯を、自分では飲まず家臣たちに飲ませて様子を見ていたとか。優しさなのか、身勝手なのか、、、当時の家臣からすれば有難迷惑であったのかもしれません。
身体の調子が悪い。。。
「検査しても原因が分からない」
「治療を受けているが、思わしくない」
「現在、服用中の薬に不安がある」
でも、
「どこに相談したら良いか分からない」
「どのように伝えたら良いか分からない」
こうしたお悩みをお持ちではありませんか?
私どもの理想は、街の駆け込み寺となることです。
健康に対する悩みがあれば、真っ先に相談できて、一緒に考えてくれる場所がある。そんな存在でありたい。。。
漢方を専門としておりますが、漢方に固執するつもりはありません。その方にとって、何が最善の方法かを考えます。
漢方薬を求めて相談にいらして頂いたにもかかわらず、薬を出さずに食事や生活指導を優先することもあります。
時には医師への伝え方、受診先や転院を含めたご相談など受けることもあります。
とはいえ、、、
漢方薬局は入りにくい(@_@)
そう思われがちです(^_^;)
店は暗くて重苦しいイメージでしょうか?
気難しそうな店主を想像していますでしょうか?
いえいえ(^_^;)
鹿の角やマムシ入りの瓶などございません。
心優しい(?)店主がお待ちしております(笑)
「ネアンデルタール人がすでに生薬の薬効を熟知していた」とする論文報告の紹介記事より~
ネアンデルタール人ともなると、少なく見積もっても数万年前の旧石器時代にまで遡ります。どの程度の知能を持っていたのかは定かでないこともあり、果たして薬効まで認知していたのかどうか。。。
「本能的」にそうしていた可能性もあるでしょうね。
比べる対象としてどうかとも思いますが、、、
我が家の犬は、具合が悪いであろう時に、決まって特定の草を食べては胃中を空にしようとします。まさしく「吐法」による解毒です。
教えたわけではありません、本能です。
一般に、薬効のある草木を「生薬(しょうやく、きぐすり)」と言いますが、中国伝統医学ではそれを「本草(ほんぞう)」と称したりします。
『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』とは、“現存する最古の薬物学書” です。記されたのは、少なく見積もっても2100年以上も前のことです。
”記した” と言っても、なにせ新石器時代のことですから紙など存在するはずもありません。書籍化されたのは後世になってからのことです。木の札に記す(木簡:もくかん)か、口伝(くでん)によって後世に伝わったと思われます。
「神農」とは、医学の祖と言われるほどにあらゆる草木を毒味し、薬効を認識して広く活用したとされています。ただ、この「神農」、、、果たして実在した人物なのか、神格化された偶像崇拝との説もあるなどはっきりしません。
古代史とはそういうものです。
ネアンデルタール人は、現在の中国とは場所も違えば時代も違います。実態がどうだったのかは想像するしかありません。。。
ただ、「本能的」にせよ「経験的」にせよ、気の遠くなるような長い長い年月を経て現在にまで受け継がれた・・・と考えると、伝統漢方でさえもごくごく微かな歴史に過ぎないと感じるのです。
さて、この辺りは、江戸城近くということもあり、他の名医も居を構えていたようです。
斜め向かいには浅田宗伯(あさだそうはく)、外科医の富永晋斎も居住していました。
浅田宗伯もやはり御典医にて、あの篤姫(あつひめ)や和宮(かずのみや)の主治医でした。幼少期の大正天皇の治療にも尽力したという記録も残っています。
また、榕堂は浅田宗伯の15歳年長にて、船遊びや漢詩を合作するなどして互いに交流を深めていたようです。
※ちなみに「浅田飴」の名称は、浅田宗伯の処方したお薬に由来するものです。
一方、榕堂の施した外科的処置は富永晋斎に影響を受けたことも明らかになっています。
単にご近所付き合いというだけでなく、医術についても影響し合っていたのですね。
感慨深いです。。。
しばらくその場に佇み、当時の街並みと名医たちの交流を想像して楽しみました(^○^)
もちろん、頭の中に流れるのは井上陽水の「MAP」♫
さて、御託を並べましたが、道行く人々の中でどれほどの方が興味をもつのでしょう。